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2008-10-16

変奏と反復 (3a)

変奏なのだ、これは。

彼はといえば、重荷を背負い、をのぼったりくだったりしていた。坂が多い街なのだ、横浜は。名高い女子校は丘のうえにあった。坂と運河元町寿町を分けた。丘のうえには名高い教会があり、そのすじでは名高いプールつきの邸宅があり、丘のむこうの基地はすでになかった。仕立ての良い制服と透徹を身にまとい、彼は歩きつづけた。そのころの彼は、なにしろ、モールトンを手に入れてなかった。

いまもって。いまなお。

長い髪を切った少女が「ぼくたちの失敗」を唄うのを眺める彼は、唇をしめらすアルコールと同じくらい引きのばされたあらゆる二度めのものどものことを思った。育ちのよい少女がカラオケボックスを去り、身持ちのよろしい少女が石川町の改札に消えてもなお、彼はそのことを思いつづけた。

「ぼくは上京するぜ」と、彼は言った。少女は首をかしげると、切りそろえられた前髪が微笑した。「莫迦じゃない」と、少女は身をひるがえした。彼が神田川沿いの風呂なしのアパートに住むのは、それからもうすこし先の話だ。

2008-10-14

変奏と反復 (2)

ヴァリエーション、いくたびの。図書館の庭、通りからは目立たない広場。カップ酒をあおり、おじさんは故郷の話を繰り返した。「兄ちゃんがよう、偉くなってよう、おれらみたいなのをよう」イテレーション、いくたびも。なしくずしの二十一世紀、マンガ喫茶と個室ビデオ屋は相似形の双生児、忘れないことだけを綱領に、時間と空間が混ぜこぜになった都市を、速度だけを武器として。

2008-10-10

変奏と反復 (1c)

ビデオライブラリーのブースで『カサブランカ』が再生しながら、彼はロディアのレポートパッドに論文を書きあぐねている。主題はあった。かかる主題のために『摩利と新吾』を読んだのだ。けっして髪を切った少女のためではなく。隣のブースで港湾労働者のおじさんがクロサワを見ている。自治体が運営する図書館は、当該自治体に居住するか、当該自治体に学校や職場がある者にサービスを提供する。上階の自習室は受験勉強に勤しむ若者たちに占拠された。本棚と本棚の間の机は良き市民たちが頑としてゆずらない。だけど、おじさんたちが鍵括弧なしの横浜で働いていることは間違いない。闘争は図書館内に酒を持ちこまないことで決着し、地階のビデオライブラリーが勝ちとられた。

「兄ちゃん、」と、おじさんは言った。飛行機が飛びたつのをおじさんは辛抱強く待っていた。クロード・レインズがヴィシー水をゴミ箱に放る。「酒をさ」
「そんなにお金ないから、みんなのぶんはないよ」
「ああ、うん、うん、いや、いいんだ」
彼はポケットに移しておいた千円札をおじさんに渡す。そのころの彼に、千円は大金だった。だけど財布にマンガを買うためのお金は残っていたし、少女と元町のマクドナルドでハンバーガーを食べるためのお金は鞄の底に隠してあった。
「いや、どうも、ありがとう」
その顔に浮かんだ表情から眼をそらさないように、彼は歯をくいしばる。おじさんはデッキからビデオを取り出し、返却カウンターに向かう。鉛筆を取りあげ、レポートパッドに「ゆるやかな」と書く。二重線でそれを消し、「無限にひきのばされた」と書く。

2008-10-08

変奏と反復 (1b)

柳瀬尚紀版の『フィネガンズ・ウェイク』を箱に入れ、いちばん上の棚に戻す。店頭のワゴンからムックを一冊択んでカウンターに持っていく。
「立ち読みするなら、図書館で借りりゃいいでないの」
と、左翼運動家くずれの店主がためいきをつく。
「たとえ飾られてあることがその本の目的だったとしても、」
ほとんどささやきに近い彼の言葉に、店主は眉を持ちあげる。
「最後の人民戦線たるぼくはそんなプチブル迎合主義を許さない」
「プチブルはおまえだよ」
「たこにも。だから、こうして、売り上げに貢献しようとしている」
「煙草銭にもなりゃしねえ」
一九八九年以前、一九八九年以前の状況を大正時代末期になぞらえたアンソロジーが幾冊も出版された。右も左も上も下も、長すぎた昭和に決着をつけあぐね、状況は整理されすぎていった。Xデイを待ち続け、Xデイを待ち望み、Xデイを待つことに飽き、ようやく訪れたXデイは、もちろん左翼運動家たちが望んだようなXデイではなかったのだけれど、Xに代入するべきなにものかこそが失われたものだったと気づいたときには九〇年代が始まっていた。
「小さいとはいえ立派な資本家がそんなこと言っちゃだめじゃない。金に色はないって言うよ」
「うるせえ。そんな本ばっかり読んでたら莫迦になるぞ。セットで『球根栽培法』はいかがですか」
「二重に権力の謀略じゃない、それって」
「小さいとはいえ立派な資本家だからな。バブルのころだって土地売らずにがんばったんだぜ」
「裏本売って?」
肩をすくめて、わざとらしく壁の時計に視線をやり、
「良い子のおぼっちゃんは図書館行って勉強でもする時間だ」
彼が取り出した百円玉がカウンターにぶつかってくぐもった音を鳴らした。ボストンバッグに本をしまい、彼は古本屋を出た。ウインズから桜木町に向かう人の流れにさからい、仏壇屋の並ぶ坂をのぼっていった。

2008-10-06

変奏と反復 (1a)

変奏なのだ、これは。

彼はといえば、重荷を背負い、坂をのぼったりくだったりしていた。坂が多い街なのだ、横浜は。名高い女子校は丘のうえにあった。坂と運河が元町と寿町を分けた。丘のうえには名高い教会があり、そのすじでは名高いプールつきの邸宅があり、丘のむこうの基地はすでになかった。仕立ての良い制服と透徹を身にまとい、彼は歩きつづけた。そのころの彼は、なにしろ、モールトンを手に入れてなかった。

いまもって。いまなお。

長い髪を切った少女が「ぼくたちの失敗」を唄うのを眺める彼は、唇をしめらすアルコールと同じくらい引きのばされたあらゆる二度めのものどものことを思った。育ちのよい少女がカラオケボックスを去り、身持ちのよろしい少女が石川町の改札に消えてもなお、彼はそのことを思いつづけた。

「ぼくは上京するぜ」と、彼は言った。少女は首をかしげると、切りそろえられた前髪が微笑した。「莫迦じゃない」と、少女は身をひるがえした。彼が神田川沿いの風呂なしのアパートに住むのは、それからもうすこし先の話だ。