2008-10-08

変奏と反復 (1b)

柳瀬尚紀版の『フィネガンズ・ウェイク』を箱に入れ、いちばん上の棚に戻す。店頭のワゴンからムックを一冊択んでカウンターに持っていく。
「立ち読みするなら、図書館で借りりゃいいでないの」
と、左翼運動家くずれの店主がためいきをつく。
「たとえ飾られてあることがその本の目的だったとしても、」
ほとんどささやきに近い彼の言葉に、店主は眉を持ちあげる。
「最後の人民戦線たるぼくはそんなプチブル迎合主義を許さない」
「プチブルはおまえだよ」
「たこにも。だから、こうして、売り上げに貢献しようとしている」
「煙草銭にもなりゃしねえ」
一九八九年以前、一九八九年以前の状況を大正時代末期になぞらえたアンソロジーが幾冊も出版された。右も左も上も下も、長すぎた昭和に決着をつけあぐね、状況は整理されすぎていった。Xデイを待ち続け、Xデイを待ち望み、Xデイを待つことに飽き、ようやく訪れたXデイは、もちろん左翼運動家たちが望んだようなXデイではなかったのだけれど、Xに代入するべきなにものかこそが失われたものだったと気づいたときには九〇年代が始まっていた。
「小さいとはいえ立派な資本家がそんなこと言っちゃだめじゃない。金に色はないって言うよ」
「うるせえ。そんな本ばっかり読んでたら莫迦になるぞ。セットで『球根栽培法』はいかがですか」
「二重に権力の謀略じゃない、それって」
「小さいとはいえ立派な資本家だからな。バブルのころだって土地売らずにがんばったんだぜ」
「裏本売って?」
肩をすくめて、わざとらしく壁の時計に視線をやり、
「良い子のおぼっちゃんは図書館行って勉強でもする時間だ」
彼が取り出した百円玉がカウンターにぶつかってくぐもった音を鳴らした。ボストンバッグに本をしまい、彼は古本屋を出た。ウインズから桜木町に向かう人の流れにさからい、仏壇屋の並ぶ坂をのぼっていった。

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