2008-10-10

変奏と反復 (1c)

ビデオライブラリーのブースで『カサブランカ』が再生しながら、彼はロディアのレポートパッドに論文を書きあぐねている。主題はあった。かかる主題のために『摩利と新吾』を読んだのだ。けっして髪を切った少女のためではなく。隣のブースで港湾労働者のおじさんがクロサワを見ている。自治体が運営する図書館は、当該自治体に居住するか、当該自治体に学校や職場がある者にサービスを提供する。上階の自習室は受験勉強に勤しむ若者たちに占拠された。本棚と本棚の間の机は良き市民たちが頑としてゆずらない。だけど、おじさんたちが鍵括弧なしの横浜で働いていることは間違いない。闘争は図書館内に酒を持ちこまないことで決着し、地階のビデオライブラリーが勝ちとられた。

「兄ちゃん、」と、おじさんは言った。飛行機が飛びたつのをおじさんは辛抱強く待っていた。クロード・レインズがヴィシー水をゴミ箱に放る。「酒をさ」
「そんなにお金ないから、みんなのぶんはないよ」
「ああ、うん、うん、いや、いいんだ」
彼はポケットに移しておいた千円札をおじさんに渡す。そのころの彼に、千円は大金だった。だけど財布にマンガを買うためのお金は残っていたし、少女と元町のマクドナルドでハンバーガーを食べるためのお金は鞄の底に隠してあった。
「いや、どうも、ありがとう」
その顔に浮かんだ表情から眼をそらさないように、彼は歯をくいしばる。おじさんはデッキからビデオを取り出し、返却カウンターに向かう。鉛筆を取りあげ、レポートパッドに「ゆるやかな」と書く。二重線でそれを消し、「無限にひきのばされた」と書く。

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