植木等が死んだのはぼくの誕生日の前日だった。植木等が死んでもう一年になる。二十一世紀、サラリーマンが気楽な稼業なわけはない。背負わなくてもよいものまで背負ってしまうぼくは、背負うべきもののことを忘れて生きている。
誰かが倒れるたびに、理由がメンタル不健全であるたびに、ぼくの煙草は二本ずつ増えていく。救うなんておこがましい行為、神様にしか許されていないけれど、神様はもう長いこと留守にしていて、忘れないことだけを綱領として、しかし二十一世紀は一貫しつづけるには長すぎる。
情報処理技術のみならず、経営の技術が、金融の技術が、ありとあらゆる技術が、完膚なく不可逆に人類を変容させつつある。変容は非人間的だから保守と反動は叛旗を翻す。変容は、しかし、まったく不可逆なので、二十一世紀、サラリーマンは気楽な稼業に返り咲きえない。
それは、グローバリズムではない。
これは、弔辞だ。しかし、いったい誰への?
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